Seel STAFF BLOG

カルチャー系フリーペーパーを制作しているSeel編集部のスタッフたちによるブログ。

田舎のイオン育ちに「シティボーイ」という幻想は必要ない

こんにちは、広報2年の後閑です。

 

新学期が始まって早一か月が経ちました。すでに夏の足音も聞こえてきています。五月病なんて言いますが、皆様はいかがでしょうか。出来ることならモチベーションはずっと高く保っていたいものですが、一度立ち止まり振りかえってみるのも悪くないものです。5月はそういう時期かもしれません。

 

僕もこの機会に自分について振り返ってみましたが、そもそも大学に入学し、田舎から出てきて一人暮らしを始めたあの頃から一年経ったという事実に結構な衝撃を受けました。

 

僕の場合、住んでいるところは都会というよりもいわゆるベットタウンに該当していますが、それでも田園と住宅とチェーン店で埋め尽くされた地元よりかは明らかに発展しているし、都内へのアクセスも圧倒的な差があります。おかげで都市的な風景にも慣れてきました。もうあの頃のように高層ビルを意味もなく見上げて感動することもありません。

 

しかし、やはり田舎出身というパーソナリティは拭い去ることはできず、都会で生まれ育った人との差を痛感する場面は多々あります。そもそも、田舎と都会ではその場にあるモノの数が全く異なるので、当然そこで生まれるカルチャーの多様性にも超えられない壁が生じしていることは自明です。思春期にハイカルチャーからサブカルまでを探求し触れられる環境なんて田舎にはなくて、あるのは田んぼとイオンだけ。そう、田舎においては「すべてのカルチャーは巨大ショッピングモールに収束する」のです。

 

 

下妻物語におけるジャスコ

 

そんなことを考えていた時に、昔見た『下妻物語』という映画を思い出しました。

 

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この映画は小説を原作として2004年に公開されたもので、当時のテンポのいいコメディドラマ感と、終始ロリータファッションに身を包む深田恭子の可愛さがふんだんにつまった作品です。

 

この作品の中で、舞台である下妻の人々がその服のほとんどを「ジャスコ(現:イオン)」で購入しているというギャグ描写がいくつか出てきます。「ジャスコにはなんだってある、なんもかんもそろってる」というセリフは一見とんでもないことを言っているようで、実は的を射ているのでつい笑ってしまいます。

 

作中でジャスコは、非文化的で均一性の高い「田舎っぺの感性」の象徴として掲げられ、深田恭子演じる桃子の鮮烈なロリータファッションやロココ時代へのあこがれと対照的に描かれます。桃子は下妻の生まれでないので、その感性に疑問を呈し続けますが、下妻の人々はそれが自分たちの暮らしの「当たり前」である以上、その文化的価値を問うことなどしません。そのギャップは作中滑稽なものとして描かれますが、都会生まれと田舎生まれの感性の違いを本質的に表しています。

 

 

マイルドヤンキーと「イオン育ち」

 

下妻物語では、もう一人の主人公として土屋アンナ演じるレディースの一員であるイチゴが出てきますが、田舎といえば切っても切れないのがヤンキーという存在です。僕の地元にももちろんいて、ブイブイ言わせている人間は多かったです。

 

しかし一口にヤンキーといっても様々な変遷があります。下妻物語は2000年初期のヤンキー像を描いていますが、もう少し最近の話をすると、数年前に流行った「マイルドヤンキー」という概念が挙げられると思います。彼らは「地元と車が大好きで、同年代との仲間意識に生活の基盤を置く」という傾向を持つと定義されています。彼らについては、当誌でもvol.22「YANKEE×CITYBOY」にて、本物のヤンキーとの比較という形で取り上げています。

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本誌ではあまり触れていませんが、そもそも「マイルドヤンキー」を提唱したのはマーケティングアナリストの原田曜平氏であり、当然その消費傾向にも注目が向けられました。彼らは「新保守層」と呼ばれます。これは政治的意味ではなく、その生活スタイルが保守的に見えるということです。都内に住む文科系の人々からは想像がつかないかもしれませんが、彼らは大衆映画や大衆音楽ばかり好み、休日はショッピングモールで食事や買い物をする、それで満足しがちなのです。

 

「そんなの人として間違っている!」と思われる方もいるかもしれませんが、ライフスタイルが根本から異なっているので都会での文化的な暮らしや地域ぐるみで文化を盛り上げている地域で生まれ育つ、もしくは暮らしている人々との比較は難しいと思われます。むしろそれゆえにこのマイルドヤンキー理論は都会の評論家たちにとって衝撃的であり、あそこまで大流行したのです。

 

そして、そのような彼らの生活スタイルを支えているのが下妻物語で均一性の象徴とされたイオンを代表する巨大ショッピングモールです。マイルドヤンキー的な傾向にある田舎で育つことはすなわち、「イオン育ち」であるといっても過言ではありません。

 

「シティーボーイ」は標語に過ぎない

 

さて、そんな「イオン育ち」の人間の中にも都会に出ようと志す人はたくさんいます。その多くは僕のように進学がきっかけです。親元をはなれ、一人暮らしを始めて、10000人が在籍するキャンパスという学びの場を与えられて、モノやカルチャーがすぐそばにある環境を与えられて、さあなにをしようかという話になります。

 

均一性の高いイオンで消費を繰り返してきた僕たちは、いきなり身の回りに溢れるモノを使って、独創性を発揮なんてことはできません。

 

すると、第一目標は「シティーという環境に迎合すること」になります。田舎臭さをネタにしつつも、周囲から浮かないように、環境に適合する、生物学的にも正しい判断です。身なりだけでなくて価値基準も都会っぽく仕上げなければなりません。田舎くさい考え方はナンセンスでダサく思われがちです。

 

結果的に、僕らは何になろうとするか。それは本誌vol.22でヤンキーと比較された「シティボーイ」という言葉で表されるのかもしれません。シティ感を身なりや立ち振る舞いから匂わせることは、シティーの一員になった何よりの証明です。だから僕たちは、自分自身にシティボーイ化を求める。

 

しかし、それは本当に可能なのでしょうか。先ほど言った通り、イオン育ちは「そのイオン育ち臭さ」を払拭することはできませんし、育んできた価値観は全くもって異なります。それどころか、シティボーイに関する文章などを見てみると、「シティボーイは、まず都市部出身でなければならない」と定義されがちです。見てくれを模倣したところで田舎出身という時点でフェイクであると否定されてしまいます。

 

ただその一方で、「シティボーイのためのファッション&カルチャー誌」を銘打っているPOPEYEの前編集長、木下孝浩氏はシティーボーイの定義を「例えば電車で席を譲れるような男の子」と表現しており、それは精神的なものだと述べています。

 

じゃあ結局のところ、シティボーイとは何なのか。これは僕個人の意見ですが、少なくともイオン育ちにとっては、「シティボーイ」とは単なる空虚な標語にすぎないのではないでしょうか。

 

POPEYEがシティボーイを推すのは、彼らがアメリカポップカルチャーの思想に基づいて、現代日本における若者たちの「理想」をクールに語る雑誌だからです。その理念自体はぐうの音も出ないほどに素晴らしいしカッコいいです。しかし、誌面でシティーボーイの実例として取り上げられる人々は、その活動や作品、そしてその人物自体に価値や魅力があるのであり、「シティボーイであること」に根本的な価値があるわけではありません。あくまでそれは標語であり、キャッチコピーにすぎないのです。

 

イオン育ちはこの標語として掲げられた「シティボーイ」を何か到達すべき目標として捉え、躍起になりがちです。ましてや、都市の価値観に合わせようとすることがシティボーイ化であり、自身のアップデートであるとみなしてしまいます。そしてその適応は大変に骨が折れ、疲れる作業です。

 

だったらいっそのこと、イオン育ちが無理して抱くシティボーイなどという幻想は捨ててしまったほうがいいのかもしれません。都市の価値観は田舎のそれと比べて効率性や多様性という点で優れているのかもしれませんが、イオン育ちがわざわざ田舎の価値観を捨てて都市の価値観に合わせ、その視点から都市を語ったところで、純シティ育ちには敵いません。

 

むしろ、歪んでいるのは都市の側で、田舎の価値観が正当なこともあるでしょう。例えば、何もないからこそ常に「なんとかしてきた」のは田舎ならではの体験であるといえます。これを話のネタ程度に終わらせるのではなく、自分の中で大切な経験として捉えておくことが重要だと思います。

 

下妻物語において、桃子とイチゴは友情を深めますが、桃子は終始一貫して「私が好きなもの・やりたいことは私が決める」と決して自分を曲げることを嫌いました。その姿勢に惚れ込んだイチゴも、たとえ一人になったとしても走り屋として自分を貫くことを決意します。

 

イオン育ちの人間も、いくら都会がハイソサエティハイカルチャーな街に映ったところで、結局向き合うのは自分で、何を為すかを決めるのは自分自身です。その時、自分が実体験してきた田舎の価値観を捨てて、見た目がスマートに整えられた標語として現れる都市の価値観に合わせようとするのが本当に正解なのでしょうか。もちろん文脈を把握することはカルチャーの理解に欠かせません。しかし自分という主体を見失ってしまうのであれば本末転倒、「都市に負けた」といわざるを得ません。

 

イオン育ちは、都市ならびに「シティボーイ」に対する信仰を捨てて、この都市という環境で、自分なりの価値観を作り上げるのだという意思を持つべきです。都市に反抗したりあえて迎合してみたり、地元を見つめ返してみたり、環境ごとの自分を客観視したり、そうやって都市や地元と適切な距離感でかかわることができたとき、イオン育ち都会在住の人間は、「シティボーイ」になれずとも、それとは別の角度から、都市とのいい関係を築ける豊かな感性を手に入れることができるのかもしれません。